のっけから引用です。
Living In A Material World
And I am A Material Girl
You Know That We Are Living In A Material World
And I am A Material Girl
(わたしたちは)物質の世界に住んでいる
だから私は物質のような少女
知ってるでしょ、わたしたちは物質の世界に住んでいる
だから私は物質のような少女
マドンナのヒットシングル、『Material Girl』です。物質社会への警鐘として歌われたポップソング。
最近、母親の体の調子が悪く、家事を僕がやっている。無職だし(笑)。はっきりいって、かなりしんどい。大変。今更ながらに、僕が小さい頃から家事をひたすらし続けてきた母親はすごいと思った。今の僕は無職で暇だから、なんとかやっている。しかし、仕事を抱えながら家事をやるとなると…、考えたくもない。少なくとも僕にはできません。ギブアップです。
そんな折に、親戚のおばさんがきた。当然話は、「家事は大変だ」という話になる。しかし、そのおばさんの息子は、「男は外で働いているんだから、女は家事をやるのは当然だ」と言い切ったらしい。それを言える神経もすごい(笑)が、家事の経験がないから言えることだと思った。「外で働いてお金を稼がなくていいから家事をやってくれ、もしくは家事をやらなくていいから外で働いて金を稼いできてくれ」と頼まれたら、僕は迷わず後者をとる。
極端な例を考えると、とてもわかりやすい。例えば、外で仕事をしていて、自分のミスで他の人を殺してしまったとする。むろん、自分のしてしまったことに対して、贖罪したい気分になるだろう。悲しみも大きいだろう。でも、自分が殺してしまった人の家族の悲しみと自分の悲しみ、どちらが大きいかは言わずもがな。「社会的」「法律的」に責任を取ることで、ことは済むだろう。しかも責任の多くは、会社という組織が負ってくれる。自分のミスで人を殺してしまったという罪の意識は消えないが、悲しみは時間とともに薄れていくはず。それに対して、被害者の心の傷は決して消えない。
家事はどうだろう。一日ぐらい掃除をさぼったって、人は死にはしない。一日ぐらい食事に手を抜いたところで、人は死なない。しかし、それを継続してしまったら?衛生状態は劣悪になり、健康を害するリスクは高まるだろう。栄養は偏り、じょじょに体を蝕んでいくだろう。しかもその被害者は、ほかの誰でもない、自分の子供であり、自分が愛した人だ。自分が加害者になり、自分が被害者になる。消えない痛みと贖罪の気持ちの堂々巡り。だれが悪いのか、自分が悪いのだ。単純にリスクバランスという観点からを考えても、後者の方が痛みのリスクが大きい。だから僕は、外で働くことを選ぶんだ。
資本主義社会が成立したとき、ドイツの学者マルクスやエンゲルスによって、その危うさが指摘された。マルクーゼは、資本主義経済により、人は資本という価値からしか物事を判断できない「一次元的な人間になる」と指摘した。しかし、資本主義の中で物質的に豊かになっていく人は、これを単なるアジテーションとしてとらえた。「そんなことはない、資本主義と人の心は別々のものだ」、と。
経済的に豊かになるということと、人間的に豊かになるということは別の概念だ。だからといって、決して二者択一のものではない。その両方を手に入れることもできるはずだ。そのためには、実存主義の考え方を忘れてはいけないと思う。それは、人間は物質社会のために生まれたものではなく、人間こそが物質社会を作り出したのであり、人間というクリーチャーの存在(=実存)こそがすべてを作り出すということ。その実存こそ、人を物質的にも精神的にも豊かにすることができるし、その逆もまたしかり、ということ。性的分業は、男尊女卑の時代に作られた大きなイデオロギーだ。物質に恵まれることは人を豊かにすることも、資本主義を機能させるために作られたイデオロギーだ。
僕はそんなイデオロギーに支配され、人の心を失いたくない。物質に恵まれ、心がないままに死ぬことより、何を所有しなくとも、心がそこにあるままに死ぬことを選びたい。
以上、母の日を前に、風呂に入りながら考えたことでした。マドンナは正しい。って、こんな物欲にまみれたブログでこんなことを書いても説得力ないか(笑)。